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KANSAI UNIVERSITY

館長挨拶

デジタル化時代と図書館

館長 内田 慶市

 関西大学図書館は、2014年度に創設100周年を迎えることになっているが、その歴史および設備、規模から、大学図書館としてトップクラスの図書館である。蔵書数に関して言えば、総合図書館、高槻図書室、ミューズ大学図書館、堺キャンパス図書館を含めて約220万冊であるが、たとえば世界最大の大学図書館であるハーバード大学の1530万冊に比べたら、その数字が多いか少ないかは一概には言えないところではある。しかしながら、その蔵書数はともかくとして、本学図書館が世界に誇るべきものの一つに、個人文庫がある。総合図書館に収められている個人文庫としては、増田文庫、泊園文庫、内藤文庫、長澤文庫、中村文庫、吉田文庫等があるが、これらの文庫は、まさに「知る人ぞ知る」コレクションであり、それはオックスフォード大学ボードレイアン図書館のワイリーやバックハウス・コレクション、ケンブリッジ大学図書館のウェード・コレクション、ロンドン大学のモリソン・コレクション等にも匹敵するものである。現在これらの個人文庫等の貴重な資料のデジタル化とデジタル・アーカイブス構築の計画が東西学術研究所など学内の他の研究機関との協力の下に進められており、世界中の研究者からその正式公開・運用が待たれるところとなっている。また、これまで欧米の図書館では当たり前であった館内でのパソコン使用やLAN環境、さらにはKOALAを中心とした各種オンラインサービスも充実してきており、今後ますます研究者および学生の便に供する図書館となっていくはずである。

 ただ、これは本学の図書館に限った話ではないのだが、ずっと私が感じてきたことを少しだけ述べておくこととする。それは一言で言えば「秘蔵は死蔵なり」ということ。つまり、書物の本来の使命は読まれることにあると私は考えているが、果たして多くの図書館でその使命が全うされているかという問題である。

 私は、毎年夏に欧米の図書館での資料調査をすることがここ10年来のいわば「日課」となっており、今年もローマ国立図書館を始め、カサナテンセ図書館、ナポリ東洋大学図書館、ナポリ国立図書館、同国立文書館を訪れた。私は16世紀以降の近代における東西の言語文化接触・文化交渉学を専門としているが、研究の関係上、見るものはほとんどがいわゆる「Rare Book(貴重書)」の類いとなる。こうした本を閲覧する場合、日本だと何日前かに予約しておき、図書館長の許可を得て初めてそれが可能になるのだが、これまで欧米の図書館でこういう経験をしたことがない。紹介状もなく突然訪れても大抵はすぐに閲覧カードも発行してくれるし、貴重書も何とか見せてくれる。複写サービスも断られたためしは殆どない。書庫にまで入れてくれる場合もある。この他、多くの図書館ではそうしたRare Bookをウェブ上で公開もしていて、ダウンロードや印刷すら可能となっていることもある。オンラインでの複写依頼など当たり前である。

 ところが日本や中国ではそうはならない。事前の予約はもちろんのこと、予約しても閲覧を断られる場合すらある。複写も全ページはダメで、半分までとか、奇妙な制限を設けているところも多い。つまり、欧米のあくまでも「公開」を原則とするのに対して、日本や中国では「秘蔵」に重きが置かれているのである。そして、面白いことに、この「公開」と「秘蔵」は、一方で「知的所有権」や「著作権」の保護の意識という観点からは、逆の相関が見られるということである。これが東西の根本的な違いだと私は考えている。「秘蔵は死蔵」であり、決して書物の本来の使命を果たすことにはならないということである。

 もちろん、最近では国内でも「公開化」は、もはや止められない一つの流れとなっており、その典型として国立国会図書館近代デジタルライブラリーや早稲田大学図書館古典籍総合データベースなどが存在している。国外のGoogle BooksやOpenLibrary、Internet Archiveなどもこうした動きを加速させる契機となっている。

 ところで、デジタル化時代において、紙媒体はどうなっていくのかである。教室から紙の辞書が消えて久しく、語学の授業など、ある単語を調べさせると、一斉に同じような電子辞書が開かれる。確かに、紙の辞書よりも軽いし携帯には便利である。近頃は、スマートフォンでも辞書アプリが入っている。iBooks等の電子図書も普及しており、最近ではページめくりが紙と同じイメージで実現されてはいる。しかしながら、こうしたものには、根本的に欠けているものがあると私は思っている。それは、紙の質感とか紙の匂いである。たとえば、あの古書独特の匂いは決してデジタルでは再現されないものである。紙の暖かみ、手触り、そんな中から知的興味が沸き立ち、書き込みや赤線を引くことで思索が深まっていくのである。デジタルとアナログは、決して相対立し、排除し合うものではない。「あれかこれか」ではなくて「あれもこれも」であるべきで、まさに人と人との関係における「みんなちがって、みんないい」と同じであると私は考えている。

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